卒論とは別の仕方で、あるいは卒論の彼方へ

卒論を書くための読書記録など

木田元『反哲学入門』 ニーチェ(後編)

・突然ですが神は死にました。ああ。もう手遅れだった。

 

・この時代、人間は「すべてのものが無意味で無価値」だという精神的状況に陥っている。

・その原因は、哲学がずっとやってきた超自然的な論理で動く「キリスト教」とプラトンの(真善美の)「イデア」。

・これらが自分たち人間の感覚を超えた価値があるというような錯覚を見せた。それが俺たちをこんなに無気力にさせたんだってっていう。なぜ神は死んだのかって。これらのキリスト教の神というのは、人類が人間の支配機構を確保するためには有効ではあった。だから、どこかにキリスト教の神やプラトンイデアというものは、人間の感性を超えて自然を超えてどこかに実在しているものではなく、人間のコントロール機関、人間の生を高揚させていくのに、役に立つものとして人間の手自身によって設定されたものでしかない。

・だけど、それが本当にあるんだと勘違いしてしまっていた。だからこそ、今が逆にそれが人間の生を抑圧するものになってしまった。でも、そんなものっていくら努力しても辿り着くことはできないよねっていうところに気づき、もう全てはむなしいよという無気力に陥ってしまったということです。

・で、その超感性的な世界を設定した元凶が「プラトン」だというニーチェの見立てなので、プラトン以降、プラトンの上に立つ哲学は全部このありもしない超感性的価値の基準の中で生きることに努めてきた。

キリスト教は、民衆のためのプラトニズムであるということからも明らかなように、大体プラトンが悪い論になりますね。プラトン、お前の、このありもしない超自然の価値観を設定することそのものが既にニヒリズムなんだ、と。

・で、ニーチェはこのニヒリズムを克服するために「ニヒリズムを徹底する」以外にないと考えます。そして、このニヒリズムを提示するとは、イデアキリスト教の神といった最高価値が死んでしまって、この世界が無価値無意味になったことを嘆き悲しむだけではなく、そんなもの元々なかったんだということを積極的に認め、最高価値を最高にポジティブに否定する以外に道はないということを考えました。

・じゃあそれはどうやってやったらいいの。今あるのはこの無価値、無意味な感性的世界しか残っていません。この「価値」っていう概念そのものを定義し、そして新たな概念に基づいて価値を定めていくという、その価値定立の原理を探さなければならないですね。

・で、もう残ってるのは感性的なもの、「自然」しか残ってないわけです。

・そしたら、自然というのを再び自分自身で制する力を取り戻し、生き生きと生成していけばよくねっていうことに気付くわけですね。生きた自然は、言うなれば、万物の持っている感性的世界の根本性格は「生」=力への意志だと。

・ここにダーウィニズムショーペンハウアーの生の概念など、ニーチェの好きな素敵なものが流れてきて、「力への意志」っていうのが生まれる。ソクラテス以前の思想家たちの「自然の概念」が流れ込んできたと、これは繋がった!楽しいぞ!とはしゃぐニーチェ

・本書ではここでニーチェの「妹との近親相姦説」の話をしているが割愛。

・それまでの哲学は真理を捉える生としての認識ということだったそうではなく、その時の生の現状を確保するために「とりあえず設定される価値」が「真理」であり、その設定をする働きが「認識」なのだという役割がある。

・なのでこの真理というのは「生の現状」、しばらくそこで安定させるための目安にしか過ぎないと言います。心であるとか、真に存在するというのはとりあえずの現状を確保し、そこで安定して持続するために人間が捏造したものである。その現状を固定する働きを認識と呼んできた。認識は「図式化」したがる。流動的なものを「固定化」したがる。

・我々の実践的欲求を満たすに足るだけの規則性や職権意識をカオスに課すのである。ここでこのカオスっていうのは絶えず生成されつつある混沌としたこの世界のことであり、図式化することによってそれがあったかも静止した不変のものであるように思い込もうと認識が頑張っちゃう世界である。

・そして、そこに真理が、真に存在するものがあるんだっていうそういう信条。しかし、それがないと生きていけないような誤謬がある!。それが真理だと、そういう認識とか真理っていうのも結局生の機能一つでしかないと言いました。

・うん、当然、この性というものは、より強くより大きく神聖視高揚したいわけで、じゃあその金正日よりももっと高いものを高揚するものがないといけませんよね。

・それが何かっていうと「芸術」であり、それによって定立される価値っていうのが「美」です。これが生を刺激し、高揚させるもの。この辺はショーペンパウアーに近い。しかしハウアー兄さんの芸術は「ダウナー系の鎮静剤」にあるとして、ニーチェの芸術は「アッパー系の興奮剤」というイメージ。

・芸術っていうのは肉体性と結びついたものであり、ニヒリズムの克服のために必要なものだという風に考えた。精神に対する肉体の優位性は、デカルトのコギトに反対する点である。

・我々の宗教・道徳哲学は人間のデカダンス形式である。その反対運動が即ち、芸術、力への意志だ。人間が最高にパフォーマンスを発揮できるのが芸術というものだ、というニーチェの構想があった訳です。

・ちなみに「価値」っていう言葉が出たが、これは実はその当時に流行した言葉で新しい言葉だった。18世紀後半にアダムスミスの経済学によって使われ始めたものをニーチェ哲学にぶち込んだ。その後もマックスシェーラーなどによって価値がその文化的価値というニュアンスで使われ始める。

・この「力への意志」が最高に頑張って一体どこに向かうのかっていうと、結局「自分」に返ってくるよねっていう。これだ。等しきものの「永劫回帰」。説明めんどいが、死んでも同じ自分にループするやつ。なら無限に楽しい人生でループしたらよくない!?っていうやつ。

・ちなみにハイデガーは、ニーチェ哲学の限界が、本質存在(何である)と事実存在(何がある)とに分けて考えているところだと指摘する。その点でニーチェ形而上学プラトニズムを克服していなかったと言いたいようです。存在概念の遡り方がソクラテス以前の思想家たちに戻るのではなく、結局はプラトンアリストテレスの存在、ウーシアの概念にしか遡ることができなかったという点で、ハイデッガーは俺はそれをやると言わんばかりにニーチェの限界について言っています。

・それを踏まえて、ハイデガーは自分の思想を哲学とは呼ばずに「存在の階層を覆い隠される、失われた原初の存在の”回想”をやろうとした。

・なるほどそういうわけでハイデッガー存在論の原初に遡るという壮大な計画が出てくるわけです。今日はこれで終わり。